花火と包丁 京子は屋台の台に三つの湯のみを置いた。大阪の夕方はまだ暑く、遠くから天神祭の太鼓が聞こえた。源三は寿司の箱を開け、隆は包丁を包んだ布を直した。三人とも店をやめて何年もたつが、祭りの日だけは一緒に寿司を作っていた。 「川辺の部屋で、この寿司を出すんだね」と源三が言った。 「頼まれた通りに出す。それから包丁を持って帰る」と京子は答えた。 山根は屋台の奥から出てきた。昔、三人に寿司を教えた人だ。山根は布の上の包丁を見たが、手に取らなかった。 「俺の包丁は、川辺のケースにある。昨日も見た」と山根は言った。 「取り返したら、また使う?」と隆が聞いた。 「使える手があるならな」 山根は京子の手を見た。京子は湯のみを山根の前へ押した。古い店を閉める前の夜に、山根の包丁がなくなった。あとで川辺は、自分が買った包丁だと言って、客に見せ始めた。山根はその話を聞いても、川辺の所へ行かなかった。 「川辺が屋上に上がるのは、花火が始まってからだ」と隆が言った。 隆は川辺の部屋へ寿司を届けたことがあり、裏の出口を知っていた。京子が食べ物を出し、源三がケースを開ける。隆は裏の出口で魚の箱を持って待つ。箱の中へ包丁を入れれば、通りまで運べるはずだった。 「ケースを割る音は、花火で聞こえない」と源三が言った。 「人が残っていたらやめるよ」と京子は言った。 源三は返事をせず、寿司の箱にふたをした。 川辺の部屋は祭りの通りから一本入った所にあった。展示室には小さな机と、包丁を入れたガラスのケースがあった。京子は机に寿司を並べた。隆は魚の箱を持って裏の出口を確かめ、源三はケースの前を通り過ぎた。 川辺は寿司を一つ食べたあとも、部屋を出なかった。外で最初の花火が鳴った。源三が京子を見ると、京子は小さく首を振った。 「屋上へは行かないんですか」と京子が聞いた。 「今日はここから見る。花火より、この包丁が気になる」と川辺は言った。 川辺はケースの鍵を開け、包丁を取り出した。京子の前に置き、寿司の皿を指でたたいた。 「これで魚を切ってみてくれ。使う所を見たい」 京子は包丁の柄に触れた。山根の包丁だった。柄の下には、若いころの源三がつけた小さな傷があった。 「魚はもう切ってあります」と京子が言った。 「箱にまだあるだろう」 隆は魚の箱を開けた。京子は魚を一切れ出し、包丁を入れた。刃はよく切れたが、京子の手は途中で止まった。川辺が顔を近づけた。 「その持ち方、山根に習ったな」 京子は包丁を下ろした。源三はケースの横から動き、川辺と裏の出口の間に立った。 「昔、少しだけ」と京子が言った。 「少しだけの手じゃない。山根はお前たちをよこしたのか」 川辺は京子の皿を取ろうとした。京子は包丁を持ったまま、一歩下がった。次の花火が鳴り、源三がケースを押した。ケースは床に落ち、ガラスが割れた。 川辺は割れたガラスを見た。隆は魚の箱を京子の足元へ寄せたが、京子は包丁を入れなかった。 「割るつもりだったのか」と川辺が言った。 「返してほしかったんです」と京子は答えた。 「警察に話せ」 川辺は電話を取り出した。源三は裏の出口を開け、隆に魚の箱を渡した。 「京子、包丁を持って行け」 「源三は?」 「ガラスは俺が割った。俺がここに残る」 川辺は電話を耳に当てた。京子が動かないので、源三は裏の出口を大きく開けた。京子は刃を布で包み、隆と一緒に外へ出た。 通りでは花火の音で声が聞き取りにくかった。隆は空の魚の箱を抱え、何度も後ろを見た。屋台に戻ると、山根はまだ湯のみの前に座っていた。 「源三は?」と山根が聞いた。 「川辺の所です。ガラスを割りました」と京子は言った。 山根は立ち上がり、屋台の戸を閉めた。隆が布をほどくと、山根は包丁の傷を指でなぞった。それから湯のみの横にあった上着を取った。 「どこへ行くの」と京子が聞いた。 「源三を迎えに行く」 山根は上着を着て、隆の持つ空の魚の箱に包丁を入れた。