小さな浴槽の湯 別府の坂道にある銭湯で、澄江は朝から床を洗っていた。女湯の奥には、一人しか入れない小さな浴槽がある。大きな浴槽の湯はいつも同じ熱さだが、小さな浴槽の湯は違う。人が入ると、その人が感じている温かさと、湯の温かさがぴたりと合う。澄江はその浴槽も掃除し、新しい湯を張った。それから番台に戻り、釣り銭を並べた。 昼前に久美が来た。いつもなら靴を下駄箱に入れる音が大きいのに、今日は扉を閉める音まで静かだった。久美は澄江に回数券を渡し、小さな浴槽へ向かった。しばらくして澄江が浴室の桶を片づけに行くと、久美は浴槽の中で肩を出していた。「湯が冷たいですか」と澄江は聞いた。「少し。でも、ここにいます」。澄江は桶に湯をすくって指を入れた。たしかに冷たい。前にもこの湯が冷たい日に、久美は番台で長く立ち話をした。その日は家の鍵をなくし、暗くなるまで探していた。「桶を持ってきましょうか。肩にかけると少し違いますよ」。久美はうなずき、澄江が渡した桶を受け取った。 久美が体を洗い始めると、澄江は桶を重ねながら聞いた。「今日は鍵、ありますか」。「あります。今日は返してきました」。久美は桶の底を見たまま言った。「借りていた部屋を出たんです。次の部屋は決まっています」。「それなら、荷物が多かったでしょう」。「最後まで使っていた茶わんだけ、まだ鞄に入っています」。澄江は久美の鞄が脱衣場の棚にあるのを思い出した。「割れないように、帰るとき新聞紙を渡します」。久美は「お願いします」と言って、もう一度小さな浴槽に入った。澄江は新しい湯を足さずに、桶で少しすくった。さっきより温かかった。澄江は番台の下から古い新聞紙を出し、一枚ずつ広げて置いた。 夕方、雨が降り始めた。澄江が入口の傘立てを外へ出すと、千秋が傘をたたんでいた。千秋は仕事の帰りによく来るが、今日は靴を脱ぐ前に携帯電話を鞄の奥へ押し込んだ。「まだ開いていますか」。「開いています。足元がぬれていますから、気をつけてください」。千秋は券を買い、女湯ののれんをくぐった。澄江は新聞紙を久美に渡したときのことを思い出しながら、番台で濡れた硬貨を拭いた。久美は茶わんを新聞紙で包み、「これで持って帰れます」と言った。澄江はその言葉を聞いて、冷たい湯の日には誰かと話したい人がいるのだと思った。 夜、澄江が浴室へ入ると、千秋は小さな浴槽の縁に座っていた。足だけ湯に入れ、手で何度も水面を揺らしている。澄江が桶ですくった湯は熱かった。千秋は顔を上げずに言った。「水を入れないでください。熱いのは分かっています」。澄江は蛇口から手を離した。冷たい湯なら話しかけようと思っていたが、熱い湯を前にすると言葉が出なかった。「ほかの浴槽も空いていますよ」。「見えています」。澄江は小さな浴槽の横に桶を置いた。「すみません。余計なことを言いました」。「いいえ。今日は何を言われても、強く返してしまいます」。千秋は足を上げ、床に落ちたしずくを見た。「仕事の日が減るんです。家賃は減らないのに」。澄江は桶を持ち直した。「それは、いつからですか」。「来月からです。さっき電話が来ました」。千秋の携帯電話が脱衣場の棚で短く鳴ったが、千秋は立たなかった。 翌朝、澄江はいつものように小さな浴槽を洗った。新聞紙はまだ番台の下に残っている。開店してすぐ千秋が来て、「昨日はきつく言って、すみませんでした」と言った。澄江は回数券を受け取り、「私も急に話しかけました」と答えた。千秋は小さな浴槽に入り、澄江は入口に置き忘れた桶を取りに行った。戻ると、千秋は昨日と同じ場所に座っていた。澄江がすくった湯は、昨日よりずっとぬるい。「今日は水を入れなくても大丈夫そうですね」。「今日は、電話をかけるつもりです。でも、何から言えばいいか分かりません」。澄江は桶を床に置いた。「仕事の日のことからでいいと思います。電話をかける前に、ここで話しますか」。千秋は浴槽の縁を少し空けた。澄江はそこに腰を下ろし、千秋が話し始めるのを待った。