預けるという言葉 横浜の海が見える会議場で、貿易会議が始まる前、美咲は通訳室の小さな窓を開けた。窓の下では、参加者が名札を見せて会場に入っていた。美咲の名札にも「通訳」とだけ書いてある。隣の通訳が来るまで、あと十分あった。 森は廊下の自動販売機で水を買い、美咲のそばに立った。会議場では、森は資料を運ぶ係になっている。「今日のレナの発言は、全部そのまま訳して」と森が言った。美咲は水のふたを回しながら、「いつもそうしています」と答えた。「言い直したくなる言葉があっても、直さないで」「それは通訳の仕事じゃないでしょうか」「今日は違う」。森は空の手を見せてから、人が来る前に廊下を曲がった。 美咲が通訳室に入ると、会場の前には長い机があり、レナが資料を広げていた。レナは船で運ぶ品物について話す代表で、毎年、細かな数字まで確かめてから話す。会場の後ろには佐伯がいた。佐伯は参加者の席に座らず、赤い資料を胸に抱えて壁に立っていた。美咲が知っているのは、森が以前、佐伯から目を離すなと言ったことだけだった。 レナの言葉が耳に入り、美咲は少し遅れて日本語をマイクに流した。「新しい道を作るだけでは、品物は早く届きません。倉庫の使い方も変える必要があります」。美咲が水を飲む間にも、レナの声は続いた。机の上の予定表には、次の発言者の名前が並んでいる。美咲はその名前を指で追い、交代までの時間を確かめた。 「急ぐ品物と、急がない品物を同じ場所に置くべきではありません」とレナが言った。ここまでは、会議の資料にある説明と変わらない。だが次に、レナは紙を見ずに、「赤い箱は今日、渡すのではなく預ける」と言った。箱の色は資料のどこにも書かれていない。美咲は同じ言葉を選んで訳しながら、窓の下の佐伯を見た。佐伯の腕の中で、赤い資料の角が少し下がった。 レナは水を飲み、船が遅れたときの保管について話し始めた。「預けるなら、受け取る人の名前を先に確かめます」。美咲はそのまま訳した。佐伯は資料を開かず、会場の右側を見た。そこには資料を配るための机があり、森が紙を並べていた。美咲はレナの声を聞きながら、佐伯がその机に近づくかどうかを見ていた。 質問の時間になり、レナはもう一度、赤い箱の話に戻った。「午後の会議まで、その箱を手元に置いてください」。美咲が訳し始めたとき、隣の通訳が交代の合図を出した。美咲は合図に目を向け、口から先に出た言葉を聞いた。「午後の会議まで、その箱を渡してください」。佐伯が顔を上げた。美咲はすぐにマイクへ向き直った。「失礼しました。渡す、ではなく、手元に置く、です」。レナも発言を止め、通訳室の窓を見ていた。 休憩になると、美咲は水を持って人の多い廊下へ出た。森は資料を積んだ台車のそばで、配る紙の数を数えている。「直したんだね」と森が小さな声で言った。「間違えましたから」「佐伯は聞いていた」「代表も見ていました」。美咲がそう言うと、森は紙を一枚取って台車の上に置いた。「次は言い直さないで。赤い資料がどこへ行くか、見ていて」。森の声は、美咲に仕事を頼む係の声だった。 佐伯が台車の前に来たため、森は新しい資料を一部差し出した。佐伯は受け取らず、美咲を見た。「さっきの言葉、最初は渡すでしたよね」「私の間違いです」「代表は手元に置けと?」「そう発言されました」。佐伯は赤い資料を持ち直したが、その場から動かなかった。「では、午後の会議で変わるかもしれませんね」。森が紙をそろえる音だけが、三人の間に残った。 美咲は会議場の扉が開くのを見て、「発言が変われば、訳も変わります」と答えた。佐伯はうなずかず、赤い資料を胸に抱えたまま会場へ戻った。森が台車を押し始めても、美咲は手を貸さなかった。通訳室に戻る前に、美咲は水のふたを閉め、名札をまっすぐに直した。