借りた名前 父の仕事場を片づけるため、私は朝から高山の古い通りを歩き、錆びた引き戸の前で鍵を三度回した。清一は仕事をやめ、小さな部屋へ移ったが、この場所だけは半年も放ってあった。 中には木の粉と油の匂いが残り、壁には鋸、鉋、金槌、鑿が、父の決めた間隔で並んでいた。私は道具を売る箱、捨てる箱、父に確かめる箱に分け、確かめる箱だけを小さくした。 最初の鉋を外すと、柄に白い紙が巻かれ、「大洞栄作」と父の字で書いてあった。次の金槌には「坂下トメ」、細い鑿には「西尾文治」とあり、その下に小さく「昭和の終わりごろ」とあった。 私は紙を爪でこすったが、古い糊は意外に強く、名前だけが汚れて残った。壁の道具を次々に調べると、父自身の名がある物は一つもなかった。 大洞栄作は十五年前に亡くなっている。坂下トメも、私が高校を出る前には葬式が済んでいたはずだ。死んだ人から借り続けることはできないので、私はそれらを父の物として扱うことにした。 昼前、古道具を扱う倉田が軽い足取りで入り、鉋の刃を明るい方へ傾けた。「手入れは悪くないですね。ただ、この紙は何ですか」 「昔の職人の印でしょう。父は何にでも名前を書く人でした」 「清一さんの名前ではありませんね」 倉田は刃を戻し、私が作った売る箱の前にしゃがんだ。「借り物なら、こちらでは買えません。あとで家族が出てくると面倒ですから」 「ほとんど亡くなっています。今さら鑿一本を探す家族もいませんよ」 「探すかどうかと、誰の物かは別です」 倉田は丁寧に言ったが、箱から手を離した。私は彼が正しさより面倒を恐れていると思い、その点では私と大きく違わなかった。 「紙を外せば、いくらになりますか」 倉田は返事をせず、刃の欠けた鋸を二本だけ買った。その鋸には名前の紙がなく、父が自分で買った品なのか、紙が先に落ちただけなのかは分からなかった。 倉田が去ったあと、私は湯を沸かし、机の上で残った紙を一枚ずつ剥がした。濡れた紙は薄い皮のように丸まり、十五人ほどの名前が流しの底に集まった。 西尾文治と書かれた鑿だけは、鋼の色がよく、柄にも割れがなかった。私はそれを売る箱ではなく、自分の鞄へ入れた。片づけの代金を父から受け取る話はなかったから、そのくらいは計算に入れてよいと思った。 午後、近所の佐和が戸口に立ち、積み上げた箱を見た。「もう空にするんですか。清一さん、本当に戻らないんですね」 「狭い部屋ですが、本人は気に入っています」 佐和は壁に残った細い釘を指でなぞった。「祖父の鑿がここにあったと思うんです。西尾文治という名前で、細くて、柄の先に焼けた跡がある物です」 私は鞄を足で机の下へ押した。「今朝までに捨てた物もあります。父は整理が悪かったので」 「そうですか。祖父が清一さんに貸したままだと、よく母が言っていました」 佐和は箱を一つずつ見たが、私の鞄には触れなかった。帰り際、彼女は「見つかったら連絡だけください」と言い、戸を最後まで閉めずに出ていった。 夕方、私は父の新しい部屋へ行った。清一は低い机で爪を切っており、私が持ってきた帳面を見ても、すぐには手を止めなかった。 「道具に、全部ほかの人の名前があったよ」 「全部ではない。鋸はわしが買った」 「亡くなった人の名前まであった。返せないだろう」 父は切った爪を紙の中央へ集めた。「本人が死んでも、家は残る。家がなくても、名前は残しておける」 「それで四十年も借りていたのか」 「返しに行って、まだ使えと言われた物もある。黙って持ってきた物はない」 私は西尾文治の鑿について聞こうとしたが、父は先に顔を上げた。「文治さんの細い鑿はあったか。佐和さんに渡してくれ。あの家では使わんだろうが、それは向こうが決める」 「見なかった。もう捨てたかもしれない」 父は私を疑う様子もなく、帳面に西尾文治と書き、その横に短い線を引いた。「なら、捨てた箱をもう一度見ろ」 仕事場へ戻ると、戸口は佐和が残した幅だけ開いていた。机の下から鞄を出し、私は鑿を握って刃先を確かめた。柄の先には、確かに小さな焼け跡があった。 流しには剥がした紙が乾いて張りついていた。私は西尾文治の紙だけを水で浮かせ、破れた端を指で整えた。 それから鑿を鞄へ戻し、濡れた名前を売る箱の底に貼った。