六秒の間 榊が北環線の車庫に着くと、車掌室の座席に白い箱が置かれていた。箱は弁当箱より大きく、前に丸いレンズが二つあり、横から細い腕が伸びていた。北環線は、運転士と車掌が乗る最後の路線だった。ほかの路線では、発車も案内も機械が行っている。 箱の上に、会社からの通知が貼ってあった。今日一日、学習機ミナを同乗させること。ミナは榊の視線、声、手の動き、判断まで記録し、明日から車掌の仕事を行うこと。榊は通知を二度読み、紙を小さく折って制服のポケットに入れた。 「榊車掌、おはようございます。今日の動作を学習します」とミナが言った。 「何でもまねするのか」 「同じ状況で、同じ結果を出せるようにします」 「結果だけでいいなら、私を見る必要はないだろう」 ミナは少し間を置いた。その間まで測っているように、レンズの下で青い光が動いた。 「結果を選ぶ過程も必要です」 榊は帽子をかぶり、発車前の点検を始めた。ドアのゴムに傷がないか見て、非常用の道具を確かめ、車内を端から端まで歩いた。ミナは天井のカメラで榊の目の向きを追い、床の振動から歩く速さを記録した。 最初の列車は六時十分に車庫を出た。榊が窓から顔を出すと、ホームに立つ野本が、いつもの灰色のかばんを胸に抱えていた。 「今朝は箱と一緒ですか」と野本が聞いた。 「新人ですよ。私より物覚えがいいそうです」 「それなら、あなたは楽になりますね」 榊は返事をせず、ホームの後ろまで見てから笛を吹いた。閉まるドアを一枚ずつ目で追い、最後に運転士へ発車の合図を送った。 二つ目の駅で、黄色い傘がドアの間に挟まった。榊はすぐに開ボタンを押し、傘を持つ手が離れたのを見てから、もう一度ドアを閉めた。 「判断の理由を確認します」とミナが言った。「傘には人の体ほどの危険がありません」 「傘の向こうに手がある」 「手は車内にありました」 「今はな。次の瞬間は分からない」 ミナの青い光が二度動いた。記録された答えが、榊の声の形で機械の中へ入っていく。榊は次の案内をいつもより短くしたが、ミナはその短さも記録した。 昼すぎ、野本が帰りの列車に乗ってきた。朝の灰色のかばんはなく、細長い植木の鉢を両手で持っていた。鉢の枝は新聞紙で包まれ、葉が一枚だけ外に出ていた。 「それは大丈夫ですか」と榊が聞いた。 「娘に渡します。次の駅で降ります」 列車が駅に着くと、野本は鉢を持ち上げた。しかし、新聞紙が手すりに引っかかり、細い枝が曲がった。発車時刻になり、運転士から確認の音が鳴った。 榊は閉ボタンに手を置いたまま待った。野本は新聞紙を外そうとしたが、指が震えてうまく動かなかった。榊は車掌室を出て、紙を破らないように手すりから外した。 「すみません。列車を止めてしまって」と野本が言った。 「六秒だけです。足元を見て降りてください」 野本がホームへ降りると、榊はドアを閉めた。列車は予定より六秒遅れて駅を出た。 「規則では、持ち物の問題は乗客が解決します」とミナが言った。 「知っている」 「では、なぜ手伝いましたか」 「枝が折れそうだったからだ」 「枝のために列車を遅らせましたか」 榊は窓の外を見た。野本はホームの柱のそばで、新聞紙の中を確かめていた。外に出ていた一枚の葉は、まだ枝についていた。 「違う。あの人は枝を折ったまま娘に渡したくなかった」 「その情報は観測できません」 「だから見た。顔と手を、両方だ」 終電が終点に着いた時、車内には榊とミナだけが残った。運転士が前の車両で電源を落とすと、天井の明かりが半分消えた。ミナは今日の記録を会社へ送る準備を始めた。 「学習できなかった判断が一件あります」とミナが言った。「六秒の遅れです。明日、同じ状況では定刻の発車を選びます」 榊は帽子を取り、車掌室の古い時計を見た。その時計は毎日少し遅れたが、会社は直さなかった。明日から、この席にはミナが固定され、榊の名札だけが外される。 「今日の私は、何回まばたきをした」 「一万一千四百二十二回です」 「全部必要だったか」 「必要性は判断できません」 「それでも記録したんだな」 「はい」 榊は送信前の画面を開き、六秒の記録を消さずに残した。ミナのレンズが榊の指を追った。 「その記録には、再現できない情報が含まれます」 「なら、明日も六秒だけ待って、自分で見ろ」 榊は車掌室の鍵をミナの細い腕に掛け、最後のドアを閉めた。