東京の駅前に、タクシーが三台止まっている。昼の二時で、道は明るい。私は一番前の車へ行く。運転手の田中さんは、車をふいている。手には紙のカップもある。
「少しお話を聞いてもいいですか。」
「はい。お客さんが来るまでなら。」
「この仕事は長いですか。」
「十二年です。毎日、朝から夜まで走ります。」
「今年、一番変わったお客さんはだれですか。」
田中さんは手を止める。
「赤ちゃんを連れた男の人です。」
「どこへ行ったんですか。」
「どこにも行きません。」
「どういうことですか。」
「家の近くを走ってください、と言われました。」
田中さんは後ろの席を指す。
「男の人は、ここに座りました。」
「赤ちゃんもいっしょですか。」
「はい。大きな声で泣いていました。」
「何時ごろですか。」
「夜の二時ごろです。」
「なぜタクシーに乗ったんですか。」
「車に乗ると、赤ちゃんが寝るんです。」
「家に車はないんですか。」
「ないと言っていました。」
「お母さんは家ですか。」
「はい。朝から仕事だったそうです。」
「お父さんが外に出たんですね。」
「そうです。とてもつかれた顔でした。」
「どのくらい走りましたか。」
「同じ道を四十分くらいです。」
「家の前も通りましたか。」
「はい。何度も通りました。」
「赤ちゃんは寝ましたか。」
「二十分で静かになりました。」
「すぐに帰らなかったんですか。」
「止まると起きるかもしれません。」
「それで、もう二十分ですか。」
「はい。私はゆっくり走りました。」
「お金はいくらでしたか。」
「四千円くらいでした。」
「お父さんは何と言いましたか。」
「高いけど、しかたないと言いました。」
「おこっていましたか。」
「いいえ。赤ちゃんを見ていました。」
「最後はどうしましたか。」
「家の前で静かに止めました。」
「赤ちゃんは起きませんでしたか。」
「小さな手だけ動きました。」
駅から女の人が歩いて来る。
「次のお客さんですね。」
「はい。話はここまでです。」
田中さんは紙のカップを置く。後ろのドアを開けて言う。
「どうぞ。どちらまでですか。」