止まった時計 一九九五年二月の神戸では、夜になると、明かりのない通りがまだいくつもあった。私は探偵の仕事を終え、壊れた塀を避けながら事務所へ戻る途中、宮田の質屋に呼び止められた。宮田はカウンターに腕時計を置き、客が出ていった戸のほうを見ていた。時計のガラスには細い傷があり、針は三時十七分で止まっていた。 「四十年前に、私が売った時計です」と宮田は言った。裏には小さく「文へ」と彫ってある。宮田が若いころに入れた字で、「文」の最後の線だけが少し長い。今夜その時計を持ってきた丹羽という男は、持ち主の高瀬文は火事で死んだので、すぐ買い取ってほしいと言ったそうだ。「買わなかったんですか」と聞くと、宮田は首を振った。「質に預かりました。金を渡す前に、持ち主のことをもう一度聞いたんです。すると、急に口数が減りました」。質札には丹羽の名前と、明日の夕方までという約束が書いてあった。宮田は約束を守るつもりで、私にはその前に文を捜してほしいと言った。 私は時計を手に取った。裏ぶたの縁には新しい傷があり、誰かが無理に開けようとしたらしい。「中に何かありますか」と聞くと、宮田は「ありません。昔、私が何度も開けています」と答えた。客が去ったあとまで、時計は仕事を増やしていた。 翌日の午後、私は文が住んでいた家の近くにある避難所へ行った。入口の紙には、その日の水と食事の時間が書かれていた。奥の机で、高瀬文は眼鏡をかけ、ノートに家々の名前を書き足していた。七十を過ぎたその手は、鉛筆を強く握っていた。私が時計の話をすると、文は鉛筆を置かずに言った。「丹羽が持っていったのね。宮田さんは元気ですか」。私がうなずくと、文はようやく顔を上げた。 「火事で死んだと聞きました」と私が言うと、文は机の端を指で押さえた。「あの人がそう言ったの」。短い問いだった。私は質札の名前を確かめてから、丹羽だと答えた。文はノートを閉じず、時計が止まった日のことを話した。火が出る少し前、文は住んでいた建物の裏口で丹羽を見た。丹羽は大家で、裏口の扉に外から鎖を巻いていたという。文が声をかけると、丹羽は腕をつかみ、時計を奪った。そのあと建物の中で火事が起きたが、文は火をつけたところまでは見ていない。 「警察には話しましたか」と私は聞いた。「鎖のことは話した。でも、丹羽の名前を言う前に、あの人はどこかへ行った」。文はノートの開いたページを私に向けた。火事のあとに会えない人の名前と、最後に見た場所が並んでいた。文は毎日そのページを持ち歩き、聞けたことだけを書いていた。「時計は戻りますか」と文が聞いたので、私は「宮田さんの店にあります。一緒に行きましょう」と答えた。文はノートを閉じ、上着の内側に入れた。 外へ出ると、通りの向こうに丹羽が立っていた。私が足を止めたときには、文も彼に気づいていた。「尾けてきたんですね」と私が言うと、丹羽は答えず、文の上着を見た。私は文を店のほうへ歩かせ、自分はその後ろについた。角を曲がれば宮田の店が見える。しかし角の手前は、壊れた壁のせいで道が狭かった。 丹羽はそこで追いつき、文の腕をつかんだ。「そのノートをください。名前が違う人もいるでしょう」と丁寧な声で言った。文は腕を引き、「違えば直します。あなたには渡しません」と答えた。私は二人の間に入ろうとしたが、丹羽が文を押すほうが早かった。文は後ろへ倒れ、壁の下に残っていた石の段に頭を打った。丹羽は逃げようとしたが、私はその上着をつかんだ。通りに声をかけてから文のそばへ戻ると、上着から出たノートは開いており、鉛筆で書いた名前は読めた。文はもう、私の問いに答えなかった。 夜、宮田の店で、私は時計を預けたままにしてほしいと頼んだ。宮田は明日の約束が書かれた質札を見て、「持ち主には会えましたか」と聞いた。「会いました」と私は答え、文のノートを時計の横に置いた。宮田は質札を引き出しにしまわず、警察に渡す封筒へ入れた。私は封筒の表に、高瀬文の名前を書いた。