四十一番の名前 四十一番の客は、なぜ毎晩ちがう名前で泊まるのか。新宿のカプセルホテルで夜勤をする真紀は、受付の時計を見た。午前一時三十六分だった。四十一番の客は、この一週間、毎晩来ていた。灰色のコートを着た女で、いつも小さな黒いかばんを持っていた。 真紀は今夜の受付の紙を開いた。名前の欄には「山下春子」と書いてあった。昨日は「川田美穂」、その前は「大野千秋」だった。部屋はずっと四十一番だった。女は来ると、受付にある紙を指で押さえ、鍵を受け取った。真紀は女が名前を書いているところを見たことがなかった。 入口の戸が開き、黒い上着の男が入ってきた。男は真紀の顔ではなく、机の上の紙を見た。「四十一番に泊まっている人の名前を教えてください」。真紀は紙を閉じた。「お客様の名前はお伝えできません」。男は時計を見た。「今日の名前だけじゃありません。今週の名前を全部、お願いします」。 「ご家族ですか」と真紀が聞いた。男は少し間を置いて、「迎えに来ました」と答えた。「本人に聞いていただけますか」。男は奥の通路を見た。「四十一番は、まだ中にいますか」。真紀は答えなかった。男の手は机の端にあり、閉じた紙から離れなかった。 奥の通路から、かすかな音がした。真紀が顔を上げると、灰色のコートの女が立っていた。黒いかばんを胸の前に持っている。男も女を見た。女はそこで足を止めた。「お迎えの方ですか」と真紀は女に聞いた。女は首を横に振った。男は机から手を離し、「外で話そう」と言った。女は一歩も動かなかった。 「この方が、お名前を聞きたいそうです」と真紀が言った。女は机の紙を見た。「紙はありますか」。真紀がうなずくと、女は「出さないでください」と言った。男が「もう二時になる」と言った。真紀は時計を見た。一時四十五分だった。 真紀は受付の内側から通路に出て、女と男の間に立った。「お話はここでお願いします」。男は「関係ないでしょう」と言った。「ここで泊まっている人のことです」と真紀は答えた。女は真紀の後ろで、かばんの持ち手を握り直した。 「部屋へ戻って、戸を閉めてください」と真紀は女に言った。女は動かず、「今日の紙を見てもいいですか」と聞いた。真紀は受付に戻り、紙を開いた。男がすぐ横へ来たので、真紀は紙を自分の方へ引いた。女は少し離れた所から、名前の欄を見つめた。「それは私が書きました」と女が言った。 男の手が紙に伸びた。真紀は紙を机の下に入れた。「昨日の紙も出してください」と男が言った。真紀は男を見た。男はもう、女の方を見ていなかった。机の下の引き出しだけを見ていた。 真紀は一週間分の紙を頭に浮かべた。女が来た時には、いつも紙が受付に置いてあった。最初の夜、男が先に来て、紙を書いたことも思い出した。その夜、男は「連れが後から来ます」と言った。次の夜からは、真紀の交代前に紙が置かれていた。真紀はそれを、女が書いたものだと思っていた。 「昨日までの名前は、誰が書いたんですか」と真紀は女に聞いた。女が口を開く前に、男が「私です」と言った。「それが何か」。男は机に体を寄せた。女は黒いかばんを開き、小さな封筒を出した。「今日、私は自分の名前を書きました。これも、持って出ます」。封筒には、前の夜までの紙を写した写真が入っていた。 真紀は時計の下にある電話を取った。男が「必要ありません」と言った。真紀は電話を持ったまま、入口から離れるよう女に手で示した。女は通路の角まで下がった。男は入口へ歩きかけ、止まった。真紀は電話でホテルの夜間の係を呼び、次に警察を呼んだ。男は何も言わず、戸のそばに立った。 二時になる前に、男は外へ出た。戸のガラスの向こうで、しばらく受付を見ていた。真紀は紙を引き出しにしまい、鍵をかけた。通路の角から女が戻ってきた。「今夜の名前は、ちゃんと残りますか」と聞いた。「残ります」と真紀は答えた。女は黒いかばんを床に置き、封筒を机の上に置いた。