市
平安京の小さき市に、女ゐたり。女は数週前に都へ来たり。小さき厨を借りて住みたり。今宵、隣人来たりて食ふべし。市はほどなく閉づべし。女の袋は足もとにあり。女はことばをほとんど知らず。
市の店に、男ゐたり。女は餅を指さして、男を見る。「これを、たまへ。」男はこれを聞く。「これか。」女は言ふ。「さなり。」男は飯を女の前に出す。女は飯を見て言ふ。「否。これにあらず。」女は餅をまた指さす。「これを、たまへ。」男はまた聞く。「これか。」女は言ふ。「否。」男は牛乳を出す。女は牛乳を見て言ふ。「否。これにあらず。」女は餅を強く指さす。「これを、たまへ。」男は沓を出す。「これか。」女は言ふ。「否。大きし。」男は笑ひ、怒らず。男は手を止む。男は餅を手に取る。男はゆるく言ふ。「餅なり。」女はその声を聞く。女は言ふ。「もちい。」男は言ふ。「よし、餅なり。」女は言ふ。「餅。」男は餅一つを女の袋に入れたり。女は袋を見る。「いくらなり。」男は言ふ。「銭一つなり。」女は銭一つを出す。男は銭を取り、餅をもう一つ袋に入れたり。男は言ふ。「これは取らず。」女は袋を胸に寄せる。「ありがたし。」
女は市を出づ。道にて女は言ふ。「餅。」女は袋を見て歩く。家の戸口にて、女はまた言ふ。「餅。」階の上に隣人ゐたり。