向こうの家のランプ 瀬戸内海の小さな島で神社を引き継いだ日、直人は、境内より先に海の向こうの家を案内された。神社の裏から細い水路が見え、その向こう岸に、瓦の一部が欠けた家が一軒立っていた。古い宮司の榊原は家の戸を開け、窓際のランプに油を注いだ。畳には人が暮らす跡がなく、台所の棚にも茶わんが二つあるだけだった。 「夕方には、ここへ来て火をつけてください」と榊原は言った。「油は三日に一度、足してください」 直人は窓の外に目をやった。神社からは家の窓がよく見えるが、家からも神社の石段が見えた。「電気を引いたほうが楽じゃありませんか」 「前に、そうしたことがあります」榊原はランプのガラスを布で拭いた。「電気は夜中に切れることがありますから」 榊原は拭き終えたガラスを直人に渡した。ガラスはもうきれいだったが、直人は布を受け取り、ランプの縁を一度なぞった。その日の夕方、榊原が島を離れる船に乗ると、直人は教わった通りに家へ戻った。細い道には草が伸び、同じ場所を何年も歩いたような跡だけが残っていた。直人がランプをつけて神社へ帰るころ、窓には小さな火が映っていた。 夜、直人は社務所で古い帳面を整理した。祭りに使う道具や、屋根を直した年が書かれた帳面の間から、一冊の薄いノートが出てきた。そこには油を買った日と量が、榊原の字で何年も記されていた。雨の日にも風の日にも、油を足した印がある。直人が最後のページをめくると、雨戸を閉めるな、とだけ書いてあった。 直人は顔を上げた。窓の向こうで、家のランプが消えていた。さっきまで水面に伸びていた細い光もなく、向こう岸は黒い屋根の形しか分からない。風が出て、社務所の戸が小さく鳴った。直人は油の入った缶を持ち、戸口に置いた懐中電灯を探した。 石段の下で、砂利を踏む音がした。直人が懐中電灯を向ける前に、音は止まった。昼間、参拝する人が通る道には誰も見えない。光を少し下げると、濡れた砂利の上に足跡が二つあった。雨はまだ降っていなかった。 直人は戸を閉めずに石段を下り、足跡の横を通って水路へ急いだ。小さな船は岸につないである。綱をほどく間、背中のほうで、砂利を踏む音がもう一度した。直人が振り向くと、社務所の戸だけが開いたままだった。風で開いたのか、閉め忘れたのか、暗くて分からなかった。 船をこぎ出すと、懐中電灯の光が水面で揺れた。櫓を動かすたびに、船底を軽くたたくような音がする。直人は岸に着くまで、神社のほうを見なかった。家の戸は昼間と同じように閉まっていたが、鍵はかかっていない。中に入ると、ランプの芯が油に沈んでいた。榊原が火をつけるとき、直人はその手元まで見ていなかった。 直人は指で芯を引き上げ、火をつけた。ガラスをかぶせると、小さな火が窓と茶わんを照らした。外で、船が岸に当たる音が聞こえた。直人は戸口まで行って船を見たが、綱は結んだままだった。神社の社務所にも明かりがついていた。直人は出るとき、部屋の電気を消したはずだった。 家の中へ戻り、直人はランプのそばに座った。水路の向こうで、社務所の明かりが消えた。少しして、石段の下から砂利を踏む音が聞こえ、音はゆっくり水路へ近づいた。直人は窓に手をかけたまま、ランプの火を見ていた。音は船着き場で止まった。 朝になると、直人は家の棚から油の缶を下ろした。茶わんは二つとも伏せてあり、直人が触れた覚えはない。窓の外では、自分の船が岸につながれていた。直人はランプに油を足し、芯を少しだけ引き出した。